植木市の起源について

植木市の起源は、今から四百数十年前の天正年間(1573~92)に、時の隈本(熊本の前身)城主であった城親賢(生年不明~1581)が、始めた市に由来すると伝えられています。
『肥後見聞雑記』によれば、親賢公が病床にある子息を慰めるため「何か珍しいものを催すように」と新町に申しつけたので、城下の新町1丁目で(子どもの遊ぶ玩具である)木の獅子頭や雉子(きじ)を作り並べた市を開いたことによると記されています。

市に花木類が登場した時期

花木の商いが盛んになったのは、資料がなく正確な時期は特定できませんが、おそらく熊本城下で園芸が活発に行われるようになった宝暦年間(1751~64)以降のことと思われます。
安永八・九年(1779)の城下の様子を記した『番多日記』によると、新1丁目の初市の模様が書かれている中に、人形・あや(竹を束ね手玉に取る玩具)などの玩具、紙さし、はな紙入れなどの小間物やお茶、煙草などの商品にまじって菊・かきつばた・梅・桜などの花木が売られていたことが書かれています。

六代藩主細川重賢(しげかた)と植木市

熊本で本格的に園芸が始められたのは、六代藩主細川重賢(1720~85)が藩経済の立て直しや士風一新を推進していた宝暦年間のことでした。重賢は植物学にも造詣が深く、蕃慈園(ばんじえん)という薬草園を設け薬草栽培を奨めるとともに、一般植物の栽培を藩士に奨励しました。また、みずから命じて草木、竹類、雑草木、花部、花木の写生などを編集させています。この藩主の植物を愛する姿勢が、熊本で園芸を発達させた大きな契機の一つとなっています。
十代藩主細川斉護(なりもり)(1804~60)も花卉盆栽を好み、園芸を奨励したこともあり、当時園芸は最盛期を迎えました。そのころ『花連』と称される吉田潤之助らの園芸家を排出しています。
当時の花連が誇りとしたものは、他人の持たない珍しい物を持つことであり、芍薬、菊、花菖蒲、松、山茶花、椿、つつじ、万年青、欄など花卉盆栽の新種の育成と逸品を創ることでした。このころには毎年二月に植木市が行われていたようです。
こうした人々と、それを受け継いだ園芸家の努力によって生み出されたのが、肥後椿、肥後芍薬、肥後菖蒲、肥後菊、肥後朝顔、肥後山茶花のいわゆる肥後六花です。
熊本の植木市が発展した背景には、こうした伝統を受け継いだ人々の間に植木愛好熱が高かったことが大きな要因となっていると思われます。

昭和の初期頃

現在のように会場を固定せず、数日間の会期で転々と移動して行われていました。
例えば、昭和の初期頃は、新1丁目(2月1日)、立町(2月3日)、広町(2月7日)白川町(2月8日)、水前寺駅通り(2月11・12日)、高麗門(2月15日~17日)長六橋(2月21・22日)、明十橋(2月23日)、布屋町(2月25日)、出京町(2月28日)、藤崎宮前(3月1日)、三年坂(3月3日~5日)、砂取町(3月初午)の計13ヶ所で開かれていました。
売られていた主なものは、明治時代以降の殖産興行のスローガンを反映して、杉、檜、桑などの山林用の苗で、他に榎、松、椋の木なども売られていました。当時は、種類も少なく、量も1ヵ所に80人ほどの生産者がリヤカーや大八車で運んでくる程度でしたが、県内各地からのお客も多く、露店も立ち並び賑わっていました。特に高麗門の植木市は有名でした。

終戦後

終戦中の一時期は取りやめになっていましたが、終戦の翌年、昭和21年2月15日には、高麗門の植木市が早くも再開され、長い伝統の力を見せつけました。
その後は、広町、高麗門、長六橋、坪井、京町、川尻、水前寺駅通り、三年坂通り、健軍の路上の計9ヵ所で数日間ずつ開かれていました。

白川公園での開催

昭和41年、道路交通量の増加などにより路上で市を開催することに支障が生じるようになり、市中心部の白川公園に会場を移して行われるようになる。

白川河川敷での開催

高度成長期に植木類の需要は急激に伸び、出店する業者数も増加し白川公園が手狭になった。また、同公園が市の中心部であり、交通渋滞の原因になってきたため、昭和51年からは、熊本駅前の本山町白川左岸河川敷で開催することになる。

戸島いこいの広場での開催

平成19年から、熊本市東区戸島町「戸島いこいの広場」で開催。

城山公園での開催

平成28年熊本地震の影響により、平成29年は熊本市西区城山半田「城山公園」で開催。

参考資料

江戸時代 人づくり風土記 43 熊本 (社団法人農村漁村文化協会)
熊本市史 第5章 南北朝及戦国時代の熊本
第12章 明冶大正昭和の熊本